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JR新幹線三島駅で降り、伊豆箱根鉄道で修善寺に向かうとおよそ30分で終点修善寺駅に到着する。駅前には修善寺温泉に向かうバスと伊豆の踊子の天城峠に向かうバスが今にも出発しそうな顔で客を待っている。
急いで伊豆の東海岸の河津までの切符を買い他の乗客と混じってバスに乗り込む。時間があれば歩いて登ることも出来よう。バスはここから浄蓮の滝へ新しい道を行くが当
時は桂川に掛かる湯川橋を渡って天城峠を目指した。
湯川橋は駅からすぐのところにあるので時間のある時は訪れると踊子の場面を理解しやすいと思う。
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福知山修善寺の本堂
修善寺の温泉は作者が一泊した処であるが湯川橋からは桂川沿いに歩いて宿に向かう。
福知山修善寺は弘法太子が開創したとされる曹洞宗の仏教寺院で桂川の北側の山裾に位置している。温泉客が多数参拝に訪れる。
作者は修善寺の宿を出て桂川沿いに戻って、逆に湯川橋を渡って修善寺温泉に向かう踊子の一行を見る。踊子の一行も修善寺温泉で一泊したと思われる。作者とは1日ずれている。
作者は湯ヶ島温泉へ足を運びそこで二泊する。 |
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浄蓮の滝
作者は浄蓮の滝の近くの湯ヶ島温泉で二泊し この時修善寺温泉での仕事を終えて湯ヶ島へやってきた旅芸人の中の踊子の姿を梯子段の中途に腰を下ろして一心に見ていた。
踊子歩道の起点は浄蓮の滝であると案内に出ている。筆者はバスで浄蓮の滝で途中下車する。
浄蓮の滝は歌に歌われている。歌詞とメローデイが聞けるようなボタンが設置されている。恨みを歌い上げるような雄々しい滝である。作者はこの滝について何も触れていないのは踊子に抱く恋心とは感情が合わないと感じたかもしれない。 |
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踊子の道
天城峠の手前でバスを降りる。運転手に「踊り子の道で降ろしてくれ」と頼んでおくとバス停に着けば声をかけてくれる。バス停から山道に入るとすぐに踊り子の道である。川端康成の小説「伊豆の踊子」はここから始まる。 |
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伊豆の踊子の記念碑
左側の杉の木の根元に「伊豆の踊子」の記念碑が建てられている。
「道がつづら折になっていよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」(伊豆の踊子より) |
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旧天城トンネル
ほどなく峠の茶屋に差し掛かり、ここで踊子にバッタリ出会う。この茶屋はトンネルの北の入口より100m位手前と思われるが今は無い。ここには旧天城トンネル北口園地の看板が建てられている。
「暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。」
下田街道もこのトンネルでかなり時間短縮となったようだ。
トンネルが出来る前はさらに高い山の峯を超える必要があった。
南伊豆への出口で記念写真を撮っている学生風のグループに出会った。若い女性の4人ずれで踊子の旅をエンジョイしている感じがする。 |
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二階滝
旧天城トンネルを抜けると下り坂になり、途中二段に流れる二階滝が現れる。この水は河津に流れる河津川の源流である八丁池から落ちてくる。しばらくするバス道に出る。バス停の近くにそば屋がありバスの来るのを待つ間に腹ごしらえをした。
この後作者は踊子の一行と合流し湯ケ野温泉の福田屋に泊まる。
踊子歩道の終点は福田屋がある湯ケ野のバス停とある。 |
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伊豆急下田駅
バスは河津温泉を経由して河津駅に到着する。ここで伊豆急電車に乗り替え、終点下田駅で下りる。下田の寝姿山より下田港を眺める。幕末建てられた大砲のそばで若いカップルが寄り添っていた。
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ぺりー艦隊の来航記念碑がたつ下田の港。伊豆の踊子の作者は此処で踊子と別れて東京へ船で帰る。今は下田から東京へ行く船はなさそうである。
桟橋から踊子が手を振る映画の最後のシーンが哀愁を誘う。 |
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波浮の港(大島)
踊子の一行は下田で故郷の大島・波浮の港を思いながら旅芸人の仕事を続けたと思われる。
「汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えてゆくまで、私は欄干にもたれて沖の大島を一心に眺めていた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持ちだった。」
作者は踊子のふるさと大島を船上で眺めながら涙を流す。同船した受験を目指す高校生に涙を見せまいとしてこらえる。 |
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大島の三原山火山
大島の中心には活火山があり、近年でも活発に活動を続けている。1986年の大噴火が記憶に新しい。火口まで歩いて30分位の展望台からのぞむ事が出来る。
大島へは東京の竹芝桟橋から出る夜行フェリーで約6時間で元町港に着く。愛ランドセンターの御神火温泉に入って旅の疲れを流したことを思い出す。 |
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船はやがて霊岸島の港に近づく。隅田川に浮かぶ佃島に見える灯台を眺めながら、下田で頼まれた孫を背負ったおばあさんを上野駅まで案内する役目があるが、もう東京である と同時に踊子のことに思いを巡らせたと思われる。事実伊豆の踊子を執筆するのは数年後のことである。
この灯台は1866年江戸末期に隅田川を航行する船舶のため常夜灯として建てられた。 |