「旅を行く」 高岡一眞
アンネの日記とオランダ・アムステルダム
運河に浮かぶアムステルダムは 歴史の街でもあり 、芸術家のを生んだ街でもあります。
アンネが秘かに住んだ屋根裏部屋があった処です。
ゴッホ、レンブラント、フェルメールなどの巨匠の街でもあります。
ゴッホの跳ね橋を模した「はねっこ橋」が神戸の港町ハーバーランドの観覧車の近くに
あります。
市内は路面電車が多数行き交う便利な街並みです。
アムステルダム中央駅は街の玄関口です。


  
  
アンネはこの家に2年と1ヶ月隠れ家として生活し、その間にアンネの日記を書き綴った。
アンネ・フランクは、1919年、ドイツのフランクフルトで生まれ、父オットー、母エーデイト、姉マルゴーと4人家族で幸せに生活していました。ところが1933年ヒットラー率いるナチス・ドイツが政権の座に就くと一家4人は身の危険を感じてオランダのアムステルダムに移り住みました。アンネ4歳の時でした。
  1940年、ドイツがオランダを占領するとユダヤ人のアンネ一家はまたしても不安な毎日を送らざるを得ない状況となってきました。ナチス・ドイツはゆっくりと、しかし確実にユダヤ系住民を隔離していきました。1942年7月6日、アンネの家族は身を潜めることにしました。アンネ13歳の時でした
教会の前の通りにアンネの像が佇んで
道行く人、バスの中からも見ることが出来る
。 
 
アンネの日記より・・・1942年
7月9日
 隠れ家はお父さんの会社事務所の奥に位置していました。外部から見つけ出すのは難しい所です。後で、また説明しますわ。
7月21日
  私たちは、ひそひそ話で昼間はそうっと歩かなければなりません。でないと、事務所の人に気づかれてしまいます。近所の人に見られたり気づかれたらとても怖いから。
昨晩は家族4人で下の階へ行ってイギリスのラジオ放送を聞いたわ。私は怖くて身震いしました。
8月21日
  秘密のアンネの隠れ家はまったく見えなくなりました。クーグレさんが隠れ家の入口に本棚を立てるといいと言ってくれました。今は下の階へ行くときには本棚を押し開いて、頭を下げて段を飛び降りなければなりません。

(道路に面した部屋が父親の会社事務所1階は倉庫、2〜4階は事務所、その奥の3階と4階がアンネの隠れ家になっている。詳細はアムステルダムへ行って確認下さい。)

10月9日
  イギリスのラジオでは、みんな毒ガスで殺されていると放送しています。私は、恐ろしくて気が動転しています。
11月7日
  木曜の夜お父さんと一緒に下の事務所へ行って会社の伝票を書き出しました。下の階はとても薄気味悪く、終わったときはほっとしました
アンネ・フランクの家はこのアムステルダム
市の西教会の近くの川岸に建っている。
  アンネの日記より・・・1944年
3月25日
  私は、人々の役に立つことをしたいし、歓びをもたらしたい。そして、私の内なるものを表現できる能力を下さった神に感謝申し上げたい。
4月9日
  いつか、この恐ろしい戦争は終わることでしょう。
  私たちにも、もう一度人間として生きられる時が来ると思います。ユダヤ人としてではなく。 私たちは、オランダ人やイギリス人に決してなれない。ずうっとユダヤ人はユダヤ人です。 でも、生まれ変わってもユダヤ人でありたい。
5月11日
  私の望みはジャーナリストになって、有名な小説家になることです。いずれにせよ戦争が終わったら「アンネの隠れ家」というタイトルの本を発行したいわ

  
  1944年8月4日隠れ家は誰かの密告で知れるところなり、アンネの家族は全員連行されました。その後、ユダヤ人絶滅の収容所に送られ1945年3月アンネは帰らぬ人となりました。アンネ15歳でした。
  父親オットー・フランクはアウシュビッツ収容所から生還しました。オットーはアウシュビッツの駅に着いて、家族がバラバラにされた時、どういう気持ちであったか語るのはとても出来ないと後で話しています。
  1947年一人帰った父親は、アンネの日記をアンネの希望通り本として出版しました。アンネの日記でアンネは、この世に生を受け、人々の役に立ちたいという思いを記述しているが15歳の若さで、すでにこういう気持ちを持っていたことに感銘を禁じえない。「生死の中の善生、最勝の生なるべし。徒ずらに露命を無常の風に任すことなかれ」という言葉を思い出す。
  この小説は、隠れ家の様子、外の動き、父親の会社でのちょっとしたお手伝い、イギリスのラジオ放送から聞こえる戦況の様子、自分の感情など手にとるように表現している。まさに文才の能力が高かったと思われる。
  
アンネの家より・・・高岡一眞の記
                 
国立博物館でレンブラントの夜警が見られる。
レンブラント像はレンブラント広場に設置されている。





 



オーベルの村での作品
  カラスの村が飛ぶ麦畑
  ピアノを弾くマルゲリット
  庭のマルゲリット
  午後の昼寝



ゴッホ美術館は国立博物館の近くにある。跳ね橋はアムステルダム川に今でも
架かっている。
ゴッホ(1853〜1890)は、画家になる決心をしたのは、27歳の時でしたが、
それまでは教師、説教師、画廊でのアルバイトなど転々としましたが、いづれも
成功しませんでした。
画家としての初期の作品は、素朴で黙々と働く労働者の生活をキャンバスに
描くようになりました。ジャガイモを食べる人などの農村を題材としていました。
 弟テオからの誘いもあり、1886年パリのモンマルトルへ移り住み、自画像の
制作に没頭しました。
1888年南フランスのアルルの黄色い家に移り住み、部屋に飾るため
「ひまわり」などの制作をしました。しかしここで「てんかん」を患い入院することに
なります。
1890年退院すると、ゴッホはパリ近郊のオーベル村に移り住みました。ここで精神
科医のガッシェに出会い親しい交友関係を持ちます。ガッシェは自らも絵を描き、
作品の収集家もしていました。二人は意気投合し、ゴッホは医師や娘のマルゲリット
(21歳)をモデルにして絵を描きました。テオに書いた手紙にも「実に美しい処だ、
田舎も田舎、特有の雰囲気、まるで絵にかいたようだ。「カラスの群れが飛ぶ麦畑」
などを製作し、沢山の絵を描いています。
中でもマルゲリットをモデルにした「庭のマルゲリット」や「ピアノを弾くマルゲリット」は
愛を注ぐ恋人のようなタッチで描かれています。
また、「午後の昼寝」は幸せな農家の夫婦が麦わらの上で寄り添って昼寝している
様子は、ゴッホとマルゲリットを連想するような愛情に包まれた光景が描かれている。

しかし 医者ガッシェは娘がモデルを続けることに快くは思っていませんでした。
そんな中ゴッホの生活を見ていた弟テオからの手紙で自らの病状が良くないことや
家族の生活が苦しいことを知るとゴッホはマルゲリットを思う気持ちを持ちながら
自らの命を絶つことを決意します(37歳)。1890年7月27日自らピストルで腹を
撃ちました。
弟テオや医者ガッシェが見守る中、2日後に息を引き取ります。
マルゲリットはゴッホからもらった「庭のマルゲリット」を自分の部屋に飾り、長い間
ゴッホへの思いを抱いていましたが、44年後1934年に市立美術館に収蔵され
ました。マルゲリットがゴッホをいとおしく思ったいたと推測される。庭のマルゲリット
に描かれているマルゲリットの顔はゴッホの深い愛が注がれているように
目、鼻、髪に表現されているように見える。
ゴッホのオーベルでの生活は愛にあふれて浄土へのプロローグへのように思われる。